第十八回 ~色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年~そして我々はなぜ小説を読むのか

読書会ログ『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』 村上春樹

全般

タイガ
僕は村上春樹作品とは読書会と共に歩んでるので、読んだのは『風の歌を聴け』に続き2作目でした。前作では主人公は街から出なかったのに、今作では冒険に出ていてびっくりした。
あなご
春樹自身が『ノルウェイの森』以降に海外に出るようになったからね。
タイガ
あと、表現が絶妙でした。村上春樹らしい表現と、春樹じゃなくても書けそうな表現のバランスや、長くなるかなってところで会話が出てきて話が前に進むし、上手いですね。表現の話は『職業としての小説家』でも書いてましたね。
KC
 村上春樹の中では、超大作でも代表作でもないけれど、最もコンパクトに主題がまとまっていた作品だった。主題とは、喪失と救済。なぜこの主題に惹かれるかというと、20代になると、誰しも喪失を経験するからじゃない?ここで言う喪失とは、あり得た可能性のこと。
あなご
 最初に読んだときはつまらないと思っていたけれど、二回目に読んで泣けましたね。最後のエリとつくるが話すシーンで泣いた。村上春樹は、学生時代の友人の自死の経験をよく書くから好き。誰しも友人の自死の一つや二つ、経験すると思いますが…。
一同
 (首をかしげる)
こみや
このもやっとした結末はどうなの?
KC
俺はこの結末はそんなにネガティヴではないんだよね。白黒はっきりつく終わり方より、ごちゃっとした終わり方の方が、よりリアリティがある
あなご
現実は全然白黒つけられないからね。トルストイの全然終わらない小説『アンナ・カレーニナ』を読んで思ったよ。
 私は今回課題図書を読んできていないのだが、四人の男女が過去を振り返るっていう構図は、私の人生を変えた、恩田陸の『黒と茶の幻想』に似ている。
KC
 多崎つくるが、職業として駅を作るっていうのは、小説家が小説を書くことと似てるなーと思いました。この話、あとで出てきます。

キャラクターごと感想

多崎つくる

あなご
 嫌い。自発的に動かず、なよなよしている。全般的に、「僕には色彩がない」とか言って、他者から肯定されたがっているのが小賢しい。そのくせ最後は「きみはハンサムだったんだよ」とか言われて、前半と後半で扱いの差が激しい。なんなの。
 全般的に、春樹の小説の主人公って何もしないよね
タカハシ
 僕は、親友たちからつくるのような切られ方をしたら、「僕は無色なんだ」って言いたくなってしまう気持ちもわかる。「君なら大丈夫だと思った。だから、君がレイプしたことにしておいてくれ。」って言われるのは、僕ならとてもキツいから。
こみや
 子供の頃から駅に妙に心惹かれて、大人になっても駅を作る仕事をしている、っていう、つくるの仕事の選び方は、とても僕に似ている。つくるも環境を選べば色が出ると思うんだけど、この無色さはどこから来るんだろう?
KC
自分のキャラクターを主張する強さじゃない?
こみや
あと、内省ばかりしていて経験をしてないからかな。36歳にしては幼い。
あなご
人は経験からしか学べないって、イケメンの斎藤鵜飼先生も言ってたよ。あと、最後に沙羅がつくるを選ぶのか、気になる。つくるは選ばれないと思う。そしてまた色彩を欠けばいい。
タカハシ
 後半で沙羅が他の男性と歩いていたのを見たつくるが、「その笑顔は僕には見せたこと無い」っていうんですけど、それってつくるの受け取り方次第で決まるんですよね。そんな自信のないやつは選ばれないんじゃないかと。
あなご
 そしてつくるは小宮くんにとても似ている。
KC
 ここまでけちょんけちょんにつくるをけなしといて、そういうこと言う?

沙羅

あなご
 好き。「フォースとともに歩みなさい。」とか「ビッグバンみたいに?」とか言うセリフが好き。春樹の小説には、よくこういうすごい女性が出てきて、物語を引っ張って行く。春樹自身、まず奥さんに小説を見てもらう、って書いてたからね。
タイガ
 本当は沙羅は出てこないはずだったって、どこかに書いてありましたね。最初はつくるが親友から裏切られるだけの話だったんだけど、どこかから沙羅がつくるを巡礼の旅に導いていったって。

灰田

タカハシ
 灰田くん、ミスターグレイが出てくる必然性がわからないんです。
タイガ
 灰田が夜中につくるのアレを咥える話、あれは夢じゃなく現実です。ホットなトピックを提供するならば、僕も高校生の時に(以下略)。
一同
 (どよめく)
KC
 この話を聞けただけでも灰田くんが出てきた意味、あったわ
タイガ
 だから灰田くんがつくるの元を去った理由は、リアクションがなかったからだと思います。本当はつくるから怒られるなり諭されるなり、なにかしらリアクションが欲しかったんじゃないでしょうか。
あなご
 灰田くんとの一件があったあと、「自分が同性愛者ではないことを(中略)自らに証明するため」に付き合った女の人が出てくるけど、それも真実味を帯びてくるね。むしろそのセリフを言わせるためだけに灰田くんは必要だったとも考えられる。
タカハシ
 でも、その考察、出来過ぎ…です。

アオ

あなご
 大好き。こういう「俺にはラグビーしかないんだぜ」っていう単純なキャラクターはいい。それで、内面が鬱屈していたら完璧。
タカハシ
 キャラ設定として、誰からも恨まれないですよね。
KC
 でも、見た目マッチョ、中身鬱屈、っていう都合のいいキャラクターいる?
あなご
 それが、いるんですよ…(以下略)。
みかこ
 だから今日のあなごさんはそんなにイキイキしてるんですね。

アカ

タカハシ
 僕は好きです。ひねくれた感じがとてもいい。

クロ

こみや
 最後フィンランドに行くのがとてもそれっぽいね。地の果て感がある。
KC
 でも実際に、名古屋から北欧の田舎に行くのはキツいよ。俺はもう田舎暮らしはもうごめんだね。都会に住んでるみんなが仲良くやってるのがFacebookで見えるから、孤独を感じる
こみや
KCはスイスの田舎に住んでた時、パンを焼いたり陶芸をしたりしていなかったの?
KC
してないね。
タカハシ
だからですよ。何事も本気でやれば、時間はいくらでもすぎるんです。

シロ

特になし

その他

春樹って6本指の登場人物好きだよね、という話。

なぜ我々は物語を読むのか?

KC
 今日はお題を用意させていただきました。俺はコンピュータでの自然言語処理をはじめ、何かしらずっと言語に関わってきた。で、やってきたことを言語をキーワードにまとめようと思ったときに、「なぜ人は物語という、情報伝達には非効率な方法でコミュニケートするのか」っていう疑問に行き当たったんだよ。物語や小説の形式に対して、効率よく意図を伝える方法って、論説文の形式がある。じゃあどうして物語が生き残ったんだろう。それどころか、なんで物語を好んで読むんだろう。
あなご
私は回り道が好きだからね。仮に最短経路か回り道か、どっちか選べって言われたら周り道を選ぶ。初めて歩く道なら普通に迷う。なぜなら、好きな道を歩きたいから
こみや
コミュニケーションの取り方で、最短経路を選ぶかどうかっていうのは、指標の1つでしかないんだね。言語の目的がコミュニケーションで、かつ2人が同じような回り道をしたいんなら、そうすればいい。
あなご
 私が小説を読むのは、自身を理解するため。私は、「あの時のあの感情は、こういうことだったのか」というように、自身を言語で理解したい。私小説を書きたい欲求と、とても似ている。人の内面を理解するために、小説はとても効率が良く、唯一無二なツールだと思う。人と直接話してても内面まではわからないから。
こみや
 それって世の中には実用書しか読まない人と、小説しか読まない人がいるけど、それはなぜだろう?っていう、読書会始めた頃の疑問に通じるね。
あなご
 私は人の内面を理解するときに、遠回りすればするほど理解できると思った。学術書は直接的な分、わかりにくい。その場ではわかった気になるんだけど、すぐ忘れちゃうんだよね。学術書の中でも、哲学書が一番わかり易い。物語の方が、わかりにくくて読むのは遅いんだけど、あとまで残る
タイガ
 日常生活を生きている有様に一番近いのが、小説っていうジャンルかもしれませんね。小説って、表現の遅延性って言葉が、よく批評でも使われてますよね。
こみや
 俺は、人は物事を理解する時に、物語っていう形式でしか理解できないんじゃないかと考えてる。それは、対象が科学であってもなんでもそう。そして、理解できるってことは面白い。逆に言うと、物語化すること=面白がること。難しい本を読んでいて眠くなるのは、その本を物語として理解できないからで、それを解消するにはウンウンうなりながら読むのではなく、その本を物語として理解できるフレームを手に入れることなんじゃないかなーと思ってる。
あなご
 心理の学術書を読んでるときにも、自分の中に物語の引き出しがあると、理解できるってことがよくあったよ。物語を多く知ってると、対象を理解するための引き出しが増えるからね。
こみや
 そして、人は自分の中でもやもやしたことを、言語化したいっていう欲求を持ってるんじゃないかと思う。物語化することで他者と分かり合えるっていう社会的な欲求以前に、自分の内面を言語化することっていうのは、もっと基本的な快楽なんじゃないな。宗教だって自己啓発だって、内面の言語化をしたテクストを元にしてるでしょ?
のそ
 Twitterが流行ってるのもそういう理由があるのかもね。
タカハシ
 『ストーリーとしての競争戦略』っていう、そんな本がありましたね。…物語を必要としない人っていますかね。ドラマとか雑誌とか、何らかの形で人は物語を欲していますよね。仮にテレビも雑誌も小説もない世の中だったら…。
みかこ
 物語って物を語るって書くから、こうして話しているだけで、そこに物語は産まれるね。
タカハシ
 僕は、人って、「こういう風に生きたい」っていうことを誰しも考えたことがあると思います。そういうときに物語って必要なんでしょうね。僕は小説を読むのも、映画を観るのも、漫画を読むのもだいたい同じ感覚で、それは「僕はこういう人になりたい」とか「僕はこういう人生を歩んでいたかもしれない」っていうことを考えるのが好きで、それが希望なんでしょうね。そして僕にとっていい物語、つまりあり得た可能性は、友情・努力・勝利、ですねー。
KC
自分自身にありえた可能性を代弁してくれる、ってことね。
みかこ
 私の番が来たら言おうと思ってたんだけど、小説って他人の人生を知ることができますよね。
のそ
 私は昔江國香織が好きで、でも江國香織の小説の主人公って自由奔放で、私はこの主人公のようにはなれないだろうなーて思ってたんだけど、それでも主人公の持つある要素を取り込もうとしていて。小説って、自己の代弁っていう目的外にも、これまで自分の人生になかった要素や、人生の選択肢を取り込むヒントになると思ってる。
KC
 小説の役割は、「代弁」と、「選択肢の提示」の二つあるってことだね。
のそ
 「代弁」は昔のこと、「選択肢」はいま以降のこと、って分け方かな。

良い小説の技巧って?

タカハシ
 思い出したんですが、『夢をかなえるゾウ』ってよくできてましたね。自己啓発っぽい内容なんですが、体裁は小説なんです。実際、読み物としても面白い。
あなご
 『夢をかなえるゾウ』は良くできてる。あれは小説っぽいもんね。小説と論文って、小説のほうが書くのが圧倒的に難しいよね。論文はテクニックさえ覚えれば書けるけど、小説はテクニックじゃないから。
KC
 小説の技巧って、なにが上手いんだろう。表現の遅延性って、必須なものなのかな。論説文って、誰が読んでも同様に受け取るための文章だから、ロジックに従って書けば、小説よりは簡単にかける。一方で面白い小説を書く技術とは何かって言うと、ありとあらゆる技巧を駆使しないと成立しない。
あなご
 とりあえず、『職業としての小説家』、読んだら?
タイガ
 めっちゃ陳腐なことを言えば、僕達も人生を振り返る時に、「ああ、あの時良かったなぁ」って思うことは多々あります。自分が読んだ物語を振り返るときも同じことは起きてますよね。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』を読み返してみても、どの部分も無駄じゃなかったと思えます。
KC
 ということは、小説内のすべての部分を無駄がないように配置するスキルのことを、技巧というのかな。何が良い小説の書き方なんだろう。
タイガ
 結局遅延性の描き方を、技巧というんじゃないでしょうか。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のシナリオ自体のスピードは早いんです。ところが、死に面したつくる君の内面を描くスピードは、遅い。
KC
 その遅さを感じる理由は、人の内面、心理的な部分で描写の厚みを増しているからってこと?
タイガ
 それが全てだとは言えないんですけど、内面の描写は大きな要素ですね。特に村上春樹の小説では、主人公が考えている情景描写から、そのままシームレスに、その人が想像している内面の描写に飛ぶじゃないですか。そのどちらの世界も、主人公にとっては、どちらも現実なんですよね。そういう描き方って19世紀以降の小説には顕著かもしれないですね。なぜそういう描き方が私達の内面を呼び起こさせるかというと、私達も普段、そういう風に世界を多世界的に感じているからですね。
KC
 そこでいう多世界的って、さっき話していた「あり得た可能性」と同じなのかな。つまり、物語の中では、あり得た可能性を縦横無尽に行き来することができる。
タイガ
 同じと言ってもいいんじゃないですか?本当に陳腐な言い方をすると、自分の経験できなかった世界を小説の中では体験できるんだよ、って言い方がありますね。
KC
 現実世界から多世界に、本当に移行するような表現のことを、小説の技巧って言ってもいいのかな。
タイガ
 そうですね。プラトンがイデア論の中で「僕らも全部、目の前のことを『知っている』けれど、実はそれは『思い出している』にすぎないんだ」って言ってるんですが、そこで思い出すキッカケって言葉なんですよね。だから小説の言葉をトリガーにして、僕達が知っているかもしれないことを思い起こさせてくれているんでしょうね。
KC
 それで思い出すのは、フロイトの夢の連想のモデルで、何か一つのことを思い出したら別のことを思い出すっていうものなんだよね。人間の深層心理って、一つの記憶を基に、どんどん似ている記憶を想起するっていう風になっているとすると、その連想を上手く導いてくれる書き方っていうのが、いい小説の技巧に求められるものなんだろうね。小説家っていう職業と、多崎つくるが駅を作る行為がとても似ているなって思ってたんだけど、まさに小説って無意識という駅を繋ぐ列車の役割をしていて、小説家って駅を作る行為なんだね
こみや
 その話で思い出したのは、人の認知って、起きているときと寝て夢を見ているときって、全く同じように認識してるんだって。日常の中で感じるデジャヴやうたた寝の夢って、本当は体験していないんだけど同じように記憶になるんだね。それと、村上春樹の『夢を見るために僕は目覚めるのです』の中で、村上春樹が小説を書く時、自ら夢の中に降りていく(たしかそれを春樹は『井戸の中に降りていく』みたいな表現をしてた)って言っていた。今までの話から、意図的に夢の中に降りていくことができると、人の記憶をうまく連想する言葉のヒントが得られる小説家になれるかもしれないね。
KC
 その夢を上手く想起できる人がうまい小説家なんだね。
タイガ
 それでイメージしてるのが、Windowsに入っているマインスイーパですよ。あれって上手いこと爆弾がないコマをクリックしたら、一気に周りのコマが裏返って、見晴らしが良くなる。言葉選びも同じで、いかにいい言葉を置くかってことですね。
こみや
 小説家とは、「内面言語化野郎」と言える、と。

小説でしかできないことって?

 今までは、内面を言語化させる側の人間の話だったけど、じゃあ物語の受け手が、自身の内面を言語化するかどうかって、言語化できない「もやもや」を、言語化したいと欲するか、放置するか、の差なんじゃないかと思う。言語化するためにそのもやもやと向き合う、つまりそれを認知すると、傷つくこともある。私がテレビ番組を作る仕事をしていて嫌いなのは、説明過多になること。テレビって小説より遥かに感想を誘導することができる。作り手側も、観念的な作品を作ろうとすると、「視聴者はそんなに頭が良くないから」って言われたりする。
こみや
 そこで言う「説明過多な作品」って、本で言うと実用書ってことかな。
 そうだね。一方で、小説家の中には、自分の中のもやもやとかイライラを、書くということでしか解決できない人がいるし、読者の中には小説を読むことでしか内面の問題を解決できない人がいる
KC
 小説を読まない人も、ドラマとかで解決してるんじゃないの?
 ドラマと小説の差っていうのは、ドラマの視聴者の視点は、監督の視点からはみ出すことができないこと。そしてドラマの視聴者は、その視点を受け入れている。一方で小説は文章しか無いから、例えば私とタイガくんが同じコンテクストを読んでも、頭の中身をカパッと開けたらそこでイメージしている映像は全く異なる。芝居は両者の中間で、観客は実際の物を見てるんだけど、舞台上のどこを観るか、っていう自由は与えられているからね。
KC
 ドラマって大衆向けに作られている。それに満足できない人が、小説を求めるんじゃないのかな。
タカハシ
 物語を読むって事を考えた時に、映像を広げるとどんどん話が広がっちゃいますね。僕はパントマイムや音楽をやっているんですが、それにはその方法でしか伝わらないものがあるんじゃないかっていう気持ちがあります。「テキスト」に焦点を当てないと、「表現」という漠然としたことについての議論になりますね。
タイガ
 それぞれの表現方法でしか伝わらないことは当然あるんだけど、言葉という媒体が伝えることのできることの広さが、他の方法に比べて広いので、言葉を特権視するかどうかってことですね。パントマイムの良さや、音楽の良さも、言葉によって語られますからね。その言葉によって作られたのが小説なので、他の表現方法に比べて強いというか。
KC
 まず言葉があって、その上に認知があるからね。
こみや
 じゃあ、絵描きってどうなの?映像作成は?
 映像作成は物にもよるんじゃない?ドキュメンタリーは…(以下略)。
KC
 いや、映像作成の各論を知りたいんじゃなくて、言葉がイメージを伝える媒体だとすると、Aさんの頭のなかにあったものを言葉に置き換えて、それをBさんが受け取って、Bさんのイメージできるものに変換して初めて理解できるわけだよね。それが、絵や映像なら、もっとダイレクトにコミュニケーションできるのかなっと思って。
あなご
 本を読まない人でも、視覚野に訴えたほうが認識は早い。特に今の子供はそっちの方が強いよ。子供向けの授業も、言葉よりもヴィジュアルで伝える物が増えてる。
こみや
 文章とヴィジュアルだと、伝えられる情報の種類が違うんじゃない?何が違うんだろう。例えば10年後には、この会話を絵文字やスタンプだけでやり取りする世代が出てくるのかな。
あなご
 ヴィジュアルでコミュニケーションをとる人は増えると思うよ。実際に、LINEのスタンプは、自閉症の子供がヴィジュアルでコミュニケーションするっていうのを知って、それなら普通の人もヴィジュアルの方がやり取りが早いだろうというのを狙って、LINEの会社の人が開発したからね。
タカハシ
 でも、言葉以外の表現手法って、言葉に比べてアウトプットするのがすごく不便なんです。
あなご
 そう。イメージでしか伝えられない子って、他者への伝達が苦手になっちゃう。例えば私の生徒でも、言葉が苦手な子はすぐ手が出ちゃったりする。でもそこで、言葉を教えていくと、自分の状況を自分で説明できるようになって、だんだん手が出なくなる
タカハシ
 僕は、これまでの教育って、イメージやその他の表現方法の上に、言葉が統べちゃっているのが嫌だなと思ってるんです。例えばこの絵がいい、っていうのを誰かに伝えたい時に、言葉じゃなきゃ伝えることができないんです。
あなご
 まだ日本では進んでいないけど、言葉以外の方法でそれを伝えるやり方も、教育現場では広まりつつあるよ。
KC
 でもそれは正しいの?教育の大きな目的には、その国を作っていく人を育てる、っていうのがあって、共同体の構成員は言葉が使えないとダメなんじゃない?
あなご
 今後は表現手段が言葉やそれ以外かを選べるっていう、選択の幅が広がる、っていうことだと思うよ。
 でもそれって、自分のバックグラウンドを理解していない人に対して、理解してもらうための表現を怠けることと繋がってるんじゃない?例えば私が作品に使う音楽を選ぶときに…(以下略)。
あなご
 そうじゃなくて、逆を考えてるの。自分と違う人が周りにいるっていう、多様性を前提にした上で、多様な人とコミュニケートできるようにしよう、っていう狙いなの。
タカハシ
 それってすごく高次元ですね。
タイガ
 その多様なコミュニケーションの中で、言葉が得意なことってなんでしょう?それがわかれば、なぜ人は小説を読むのかの答えに行き着くかもしれないですよ。
あなご
 言葉がすごいなと思う例として…聾啞の人たちが使う手話って、単語数が少ないの。そういう人たちが犯罪者になって、少ない単語を健常者の言葉に翻訳して動機を説明しようとしても、全然説得力がないの。だからどんどん牢屋に入れられていく。しかも、聾唖の人って、産まれたときには知的障害はなくても、表現できる言葉の数が少ないから、育つにつれて知的障害くらいになっちゃうの。聾唖の人たちには聾唖の人たちの世界しかない。たまにテレビで観る、健常者がやってる手話通訳も、実は本当の聾唖の人達が使う手話と若干違う。
KC
 単語の量を増やせばいい、っていう単純な話じゃないの?
タイガ
 増やしようがないのもあるんでしょうね。そう考えると、言葉はいくらでも新しい単語を発明できる、という、広さはありますね。
あなご
 言葉についての他の例としては、人と仲良くなるときって、お互いの共通言語の量が少ないと仲良くなれない。実際に、育ちや学歴がぜんぜん違う人達と一緒にお芝居をしてたときは、共通言語を増やしていって仲良くなったよ。
タカハシ
 さて、これくらい語れば、KCさんはこの議論をネタに一財産築けるんですかね。
KC
 統一理論を考えたい。

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