第十五回 ~三島由紀夫著「夏子の冒険」~

三島由紀夫って、何がすごいの?

KC
俺は他に三島由紀夫の作品を読んだことがないんだけど、三島由紀夫って、なかなかすごいの?
タカハシ
全国の文学部を敵に回す発言ですね。
あなご
どんな人か、作品を残したか知ってるかな?
KC
仮面の告白とか、金閣寺とか、有名な著作を残して、最後市ヶ谷で腹切って死んだ人でしょ?でも俺は、この本を読んで、カケラも文才を感じなかったんだけど。
あなご
三島由紀夫には、金閣寺とか潮騒とか、純文学で重めの作品がある一方で、今回の夏子の冒険みたいな、くだらない小説も残してる。で、今回は、あえてくだらない方を読もうってこと。
タカハシ
印象に引っかからなかったのは、引っかからなく読めちゃったからじゃないですか?それって書き手が上手いからなんですよ。
KC
著者の優れ方って色んなジャンルがあるじゃない。例えばドストエフスキーや村上春樹は、深い洞察が入っているから優れてると思うけど、それと夏子の冒険の優れ方は並列に語れないよね。三島由紀夫ってどういう点で優れてるんだろう。
あなご
特に比喩がうまくない?村上春樹ほど鼻につく比喩じゃないけど、「情熱という言葉をチューインガムのように濫用した」みたいなの。三島由紀夫が夏子の冒険を書いたのは26歳なんだけど、初作は16歳の時に書いてるからね。
タカハシ
10年目…!夏子の冒険って、ともすると大衆小説なんですけど、例えば超音域広い歌手が、あえて音域狭くて簡単な歌を歌っているような、例えば超うまい漫画家が15秒くらいでササっと似顔絵を書いたような、そういう力を持て余した人の遊びのような、余裕を感じるんですよね。
あなご
この大衆作品のレベルで限界っていう著者もたくさんいるからね。表現が下手すぎて、途中で投げ出したくなること、あるよ。三島由紀夫は、本当はもっと深い話を、信じられないくらい美しい日本語で書ける人なの。
KC
それと手抜きと、どう違うの?
あなご
三島由紀夫は手を抜いてないから。もし夏子の冒険で三島由紀夫の作品を初めて読んだんなら、「三島由紀夫って、名前が知られてる割に読みやすいんだ」っていう印象を持ったんじゃないかな。
こみや
その辺の「三島由紀夫って実はすごい人なのに、こんなに読みやすい本書けるんだ」的感動って、三島由紀夫の背景を知らないと読めないことなのかな?純粋に、本と、読者の感受性で楽しめるものではないのかしら。もしかしたらKCは、普段から質の高い日本語で書かれた本しか読まないから、三島由紀夫レベルでは何も感じないのかもしれないね。
タカハシ
ゆとりある、丁寧な生活…。確かに、下手な方がわかりやすいですね。

 

夏子の冒険 解釈

こみや
最近、冒険、した?
KC
うーん、最近冒険をしてないし、色々思索する時期だから、本読んできたんだよね。
こみや
KCにとって、夏子の冒険は、冒険の代替になりえたの?
KC
いや、この話、タイトルと違って、夏子はほぼなにもしないじゃない。
あなご
「井田の冒険」でも良かったかもしれない。あと、周囲に出てくるキャラクターが、コメディの定番と言ってもいい、典型的なキャラクターばかりだった。夏子の親族のおばさん3人組は、「踊る大捜査線」のおじさん3人組と同じようにみえる。ほかにも、ぽっちゃりして抜けている野口くんも、定番。
こみや
アイヌの人が出てくるのも、定番要素のひとつかもね。これ、アメリカで作られていたら、きっとインディアンだったんだ。
KC
三島由紀夫って、少なくともこの本では女性を偏見ていうか、「女ってこういうもんなんだ」っていうフレームワークに入れて描いているけど、こういうもんなの?
タカハシ
三島由紀夫は色々なものについて、「これはこういうものだ」って言い切る。それはそれで心地いいと思います。この本は、常に三島由紀夫の目線で書かれていて、女性だけじゃなくて全てのものを三島由紀夫のフレームに入れて語っています。その中でも女性、特におばちゃんに対する当たりが強いから、その印象が強いんでしょうね。ただ、フレームに入れてると、似たようなシーンで似たようなセリフを吐かせたくなっちゃうんですけど、夏子の冒険においてそういう違和感って一切なかった。三島由紀夫はその辺もすごいんでしょうね。
KC
群像劇。
タカハシ
漫画家が漫画を書くときって、緻密に設定やプロットを考えてから物語を書き始める人と、キャラクターが勝手に動き始める人の二種類がいると思うんです。三島由紀夫がどっちだったかわかりませんが、小説書く人も分けられそうですね。そしてうがった見方をすると、「キャラクターが勝手に動き出すんです」って言う人の方がかっこいいですね。
あなご
役者もそうだね。
KC
夏子の冒険で面白いのは、物語は往々にして勧善懲悪になりがちなのに、井田くんが熊を倒す動機は、熊が絶対的な悪だから、ではなく、憎しみだってこと。三島由紀夫の生きていた当時は、学生運動とかで資本主義を憎んでいた時代じゃない。熊を倒す井田を社会主義、熊を資本主義、夏子や取り巻きを、それに踊らされる民衆と捉えると、しっくり読める。さすが三島由紀夫、腹切って死ぬだけあるじゃん。
あなご
KCくん、読んでくると違うね!
KC
で、面白いのは、村上春樹が「羊をめぐる冒険」で、夏子の冒険をパロディにしているところ。羊をめぐる冒険では、敵である羊は、自分の内部にいるんだよね。三島由紀夫の時代(1950年代)は、戦うべき対象は社会主義とか自分の外部にいるけれど、村上春樹の時代(1980年代)には、その対象が自分の内部に移ってきたっていうことを表しているんだろうね。
タカハシ
それって社会主義が資本主義を倒していたら、きっとつまらない世の中になるんだろうな、っていう思いとつながるんですかね。
KC
そう、それって、根本的に人間が闘争を面白いと思うところにつながるんだろうね。…俺はそういう、ひねた読み方しかできないんだ。

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